益子氏は三菱自動車を約16年間主導した
真っ赤に充血した目とかすれ声。理由は毎日のようにある酒宴だ。
「酒は好きなんだけど、こう連日続くとさ」。リーマン・ショック直後の2009年ごろのことだ。相手は取引先、顧客、銀行と、とにかくトップ営業で駆け回った。当時は経営再建の途上にあり、優先株の処理や提携先の確保という課題が重くのしかかっていた時期でもある。
とりわけ厄介なのは、居並ぶ三菱「金曜会」の長老連中だった。持ち前の明るさと腰の軽さを生かし、グループの支持を次々取り付けていく。益子さんでなければ、おそらく三菱自動車への支援は瓦解していただろう。
「まあ休みは当分ないよ」。目の赤さと、手に抱える資料であふれた紙袋の膨らみは、それだけ当時の三菱自が苦境にあることを物語っていた。
1972年に三菱商事に入社。三菱車の海外営業で頭角を現し「自動車のエース」と呼ばれた。転機は2004年だ。リコール問題で経営不振に陥った三菱自の再建役として白羽の矢がたつ。
それ以来、実に16年間だ。本人も想定していなかったほど長期にわたって三菱自の再生をけん引することになるが、原動力になったのはやはりその外向的な性格だった。
「とりあえずやってみないとね」が信条。09年には世界初の量産型電気自動車(EV)「アイ・ミーブ」を発売する。ノルウェー、フランス、長崎県五島列島……。EVの需要がありそうな各地に自ら足を運び、大型商談をまとめた。
その後、世界販売台数で数倍もある現・仏グループPSA、日産自動車との提携を実現させる。いずれも益子さんの天性ともいえる「人たらし」の能力があってこそだ。
オーストラリア工場の閉鎖やダカール・ラリーからの撤退など、強引な手法は時に社内で反発も生んだ。「誰かがやらないと駄目なんだよ」。三菱商事への出戻りも一時取り沙汰されたが、使命感は誰よりも強かった。
いつもの冗談も、そんな責任感と重圧感を隠すために必要だったのかもしれない。社長インタビューを頼んだときのことだ。「俺の赤い目さ、CGで消せない?」。いつでもまわりを笑わせていた益子さん。あの笑顔をもう見られないのは寂しい。(企業報道部次長 阿部哲也)
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2020-08-31 11:45:39Z
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